最愛の父を亡くして9年。
県をまたぐため、お墓参りには行けませんでしたが、私はいつでも父と一緒にいます。
私の部屋には父の葬儀で使用した小さなサイズの遺影と、父が愛用していた小さな置き時計があります。
これらを欲しがるであろうライバル?がいたので、いち早く自分の物にして、長野に持ち帰りました。
9年前のある日の午後、闘病中だった父は病院で亡くなりました。
その日の早朝、ニコニコと微笑む父が唐突に夢に現れ、私の名を呼び、バイバイ!と言い、どこかに去って行きました。
目覚めてから、嫌な予感がすると思っていると、東京にいる母から電話が来て、危篤を告げられました。
夢の中の父の言葉、そして、その1週間前にお見舞いに行ったとき、照れ屋の父がじっと私の顔を見つめ続けていたことを思い出し、間に合わないことを悟りました。
案の定、誰にも看取られず、父は旅立ちました。
その日は奇しくも私の家族の誕生日でした。まるで「俺のことを忘れるな」と言うように。
せっかちで、単独行動が好きなくせに、寂しがり屋の父らしいなと笑ってしまいました。
うれしいときも、悲しいときも、父の遺影に話しかけます。
でも、父は何も語ってはくれません。
生前と同じです。
私は子どもの頃から、めったに父に相談しませんでしたが、たまに相談しても、自分の意見を押しつけることはありませんでした。
お酒とタバコとクラシックとジャズと植木等が大好きだった父。
子どもの頃から英語に興味を持ち、勉強を始め、仕事で海外を飛び回っていました。
父は、憧れ続けたアメリカに50歳にして初めて赴き、ひとり駐在員として3年半、奮闘していました。
苦労も多かったと思いますが、感想を聞くと、「やっぱりネィティブの英語は聞き取るのが難しいなあ。慣れるまで大変だった。」と笑っていました。
私の年代になると、友人から親が闘病中である、そして、亡くなったという悲しい言葉を聞くことが増えてきます。
そんな時、私がいつも言う言葉。
「大丈夫。大切な人はずっと心の中で生きている。見守ってくれているから。」
父の葬儀が始まる前、父のこよなく愛したクラシックの名曲を流しました。
クラシック。日本語にすると、こてん。
これが私の屋号の由来です。