日本語の授業をするためには、教案を作成しなければなりません。指導項目を分析し、全体の流れを考えながら、シナリオのように書いていきます。
特に、初級では、語彙のコントロールもしっかりしなければなりませんし、わかりやすい導入の場面、豊富なドリル練習を練り、実際に使えるようになるための応用練習を
考えなければなりません。
教案作成は孤独な作業です。うちで一人で集中して行います。いいアイディアが浮かんだときはうれしくなりますが、正直、楽しい作業と言える教師は少ないと思います。
ふと、考えることがあります。教案を作成しなくてもいい仕事だったら、楽なのかなと。
もし、学校で指定された教案が全て用意されていて、その通りに教えることになっていたら。
もちろん、自分でも分析しなければならないでしょうし、教案は同じでも、授業では教師の個性が出るでしょう。
そう考えたとき、思ったこと。
「そんなのつまらない。」
自分で苦労して書いた教案で教えるからこそ、うまくいっても、失敗した部分があっても、おもしろい。次回はこうしてみようと、工夫ができる。
教案が指定されていて、この通りにやってくださいというシステムだったら、私はここまで教師を続けていなかったと思います。途中で飽きてしまったでしょう。
時々、「人の教案では授業はできないよね。」と教師同士で話したりします。
それがどんなに素晴らしい教案であったとしても、作った教師の頭の中で構築したものを使いこなすことは無理だと思います。
教案作成から授業は始まっているのです。そして、自分で作るからこそおもしろいのだと思います。